秋晴れの日曜日ですね。久しぶりに「スイミー」を読み返しました。
赤い色の兄弟たちと楽しく暮らしていた、まっくろな魚のスイミー。お腹をすかせたマグロが突如現れ、兄弟魚は残らず食べられてしまいますが、だれよりも速く泳げるスイミーは逃げきります。未熟な子ども時代に、兄弟姉妹を食べ尽くしたマグロから得意の泳ぎで唯一逃げきったスイミーは、魚のエリートかもしれません。けれど一匹だけ生き残ったスイミーは幸せではありませんでした。
スイミーはおよいだ、くらいうみのそこを。こわかった、さびしかった、とてもかなしかった。
孤独なスイミーはひろい海ですばらしいもの、おもしろいものを見るたびに元気を取り戻します。
にじいろのゼリーのようなくらげ、すいちゅうブルドーザーみたいないせえび、みたこともないさかなたち。ドロップみたいないわからはえてるこんぶやわかめのはやし、かおをみるころにはしっぽをわすれているほどながいうなぎ、かぜにゆれるももいろのやしのきみたいないそぎんちゃく。
家族を失った幼いスイミーを、豊かな海とその生き物たちが育んでくれたのです。小さなスイミーがひろい海の世界で成長し、新たな意欲を見いだしたとき、まさに機が熟したかのように新しい出会いがスイミーに訪れます。それは、かつて一緒に暮らした兄弟魚にそっくりの小さな赤い魚たちでした。スイミーは喜び、声をかけます。
「でてこいよ、みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ!」
しかし小さな赤い魚たちは、大きな魚に食べられる恐怖からスイミーの呼びかけに応えてくれません。外の世界を知るスイミーはこのままじゃいけないと思い、どうしたらみんなが外に出てこれるかを全身全霊で考えます。そしてひらめくのです。
「みんないっしょにおよぐんだ、うみでいちばんおおきなさかなのふりして!」
みんなが離ればなれにならず、持ち場を守って一匹の大きな魚のように泳げるようになったとき、スイミーは言います。「ぼくが、めになろう」。その後は、戦いらしい戦いもなく、大きな魚は追い出されます。はればれと、しかしあっけらかんとしたエンディングです。
成長して小さな赤い魚たちと出会ったとき、スイミーはだれよりも速く泳げるうえに、ひろい世界に出て見識も深めたひとかどの魚でした。スイミーの能力をもってすれば、赤い魚たちと暮らさずに別の場所を求めることもできたでしょう。しかしスイミーは、だれよりも速く泳げる力を使わず、この場所で赤い魚たちとともに生きるにはどうしたらよいかを考え、実行します。赤い魚たちもまた、実に違和感なくスイミーを受け入れ、スイミーを目とした大きな一匹の魚になって泳ぎます。
あさのつめたいみずのなかを、ひるのかがやくひかりのなかを、みんなはおよぎ、おおきなさかなをおいだした。
「おいだした」という結末はあるものの、作者がなにより描きたかったのは、ひろい海で気持ちよさそうに泳ぐ魚たちの姿ではなかったかと思います。それぞれに違った一人ひとりが集団で生きていくときに、自分の持っているものをどのように使うか(または使わないということも含めて)、思いをめぐらし行動する過程をうつくしいものとして描いているように思うのです。
(H)